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LINEの恐怖

 かなり昔の卒業生です。今では三十近くになっているでしようか。

 

 当時は、ラインというのが一種の恐怖であったようで、ラインが来る音でみんなドキッとしたそうです。昔はいちいち「ライン」「ライン」とうるさかったようです。

 

 昔、スマホも持っていない私は、よくわからないものに今の若い人たちはとらわれているなと思っていました。

 

 今では、ラインも使わせてもらう立場になりましたが、うれしいことにラインも静かになってくれました。こんなだったら、ラインの恐怖はないのかなあ。いや、人によっては新しい恐怖が生まれているかもしれません。

 

 スマホのない世界で、のんびりとおだやかに暮らしていけたらいいなあ。あまりスマホに頼らず、自分の感性を磨けたらいいけど、それもあやしいですね。みなさま、花粉でしんどい時期ですけど、どうぞ、お元気で!

父が住んでた街あたり

 

 もう何十年も前、私も生まれてないし、日本が戦争をしていたのかどうか、たぶん、それは終わってたのかな。

 

 そういう時代に、カゴシマから都会に出ていた父が、この街あたりに住んでいたということでした。あれこれ説明はしてくれたんですが、イマイチわかっていなかった。

 

 どうしてそんなところに住んでいたの? そのころどんな仕事してたの? お母さんとはどんな風に出会ったの? もっともっと聞いておけばよかったことがたくさんありました。市電も走っていたと思われますが、そんなところで父は何を目標に生きていたんだろう。

 

 戦争は終わっていたんですよ。父は、日本のゼロ戦アメリカの飛行機に撃ち落とされるのも見たことがあった、というのを聞かせてもらったことがあります。

 

 そういう時代を乗り越えて、やっと平和が来たけれど、みんなが貧しい、産業もさっぱりの、未来が見えない日本で何をめざして生きていたんだろうな。

 

 あらためて、父とお話しできたらいいんだけど、残念ながら父はこの世にはいません。反省は尽きないですけど、改めて何かを話しをすることって、誰かの力がないと進まないものでした。

 

 全く何も知らない存在の人が、「どうして?」と立ち向かってくれると、そこから突破口が開かれるものですが、父にだれかが「どうして?」と質問してくれませんでした。質問があると、次から次と閉まってたドアが開かれるのだけれど、なかなか自分では開けられないようです。

 

 みなさま、もしよければ、まわりの人に、どんどん「それはどうして?」と聞いてください。面倒な場合もあるけど、素直に聞いてくれたら、何だか話ができそうな気がします。そういう突破する力は、若い人にしかありません。どうぞ、その突破力を生かして、いろんな壁を突き破ってくださいませ。どうぞ、よろしくお願いします。

ケツメイシの「サクラ」2017版かな?

 

 

 ケツメイシの「サクラ」のビデオをyoutubeで見せてもらったら、この前まで「下剋上球児」のキャプテン役で頑張ってた伊藤あさひという俳優さんが出ていました。

 

 彼は、こんな風に、若者をずっと演じて来てたんですね。2023年は野球選手で頑張ったから、2024年は、また違う役をしたり、もっとセリフのある仕事が来るといいですね。

 

 この女の子は、芸能界で頑張っているみたいです。メジャーなのかどうか、私にはわかりません。でも、K-POPアイドルになりたいだなんて、今もこの波は来ているのかな。もう48ではダメなのかな。これもわかりません。

 

 日本のアイドルは、使い捨てですから、ぜひ自分で生きていく道を見つけて欲しいです。ああ、アイドル業界も大変です。おしゃべりができたら、ひな壇芸人ができるだろうけど、テレビもつまらないですからね。そんなのやってても何にもならないな。

 

 ちゃんと心を伝えられるかどうかですね。頑張ってほしいな。

球児たちは語る 2018年6月ころ

 

★ 小一から未来へ                S・Y(ピッチャー)

 僕は小学一年生から野球をやっています。入った当時は、全然投げたり打ったりすることができなかったけど、練習をやっているうちに、段々と投げれたり打てたりしてきたので、その時はうれしかったです。

 僕が小学六年生の時に全国大会に出場しました。僕たちのチームは初戦を勝ち、その勢いで決勝まで行きました。決勝の相手は、東京北砂リトルリーグで、そのチームには現在日本ハムファイターズで活躍している清宮幸太郎選手がいました。その時はエースでピッチャーをやっていました。僕は一打席だけだったけど、とても速くてボールに全然当たりませんでした。結局負けてしまって悔しかったです。

 中学校に入り、僕はシニアに入りました。中学校の野球はリトルと違って、グランドも塁間の距離が遠くなっていて、最初は遠くて疲れました。僕たちの世代になると、ドラコンズカップに出場しました。でも、初戦で負けてしまい悔しかったです。

 高三の今は、エースとして四季連続で県大会に出場しています。高校野球が終わると大学に進学して、大学野球をしたいと思います。でも大学野球はレベルが違うので、もっと練習して通用できるように頑張りたいと思います。

 

 

★ 野球を頑張ります               K・I(セカンド?)

 ぼくは野球をしています。小学一年から続けてきて、現在も硬式野球を頑張っています。毎日六時に起きて準備をして、学校へ行って三時半まで勉強して、そこから七時まで練習をして、家に着くのは九時くらいです。だから、そんなに自分の好きなことや趣味などはできません。

 毎日野球をして大会で勝てるように頑張っています。暑い日も、寒い日も、風が強い日も、雨の日も、体調が悪い日も休まずに野球を頑張っています。

 ごはんをいっぱい食べて、もっと体を大きくして、すごい打球を飛ばせるようにしたいです。

 野球をしていく中でぼくが大切にしているのは、道具です。道具を大切にして、汚くなったらきれいにふいて、大事にしています。
正々堂々と戦うことを違います。チームのみんなと頑張っていきたいです。

 

 

★ 僕は野球をしています              N・I(レフト)

 僕は野球をしています。小学校三年生から野球をしています。小学校の時は毎日野球が楽しくて練習に行っていました。中学校の時はクラブチームに入り、野球をやっていました。毎日自主練習をして、試合に出られるように頑張っていました。

 最初は試合に出ても結果が出ず、とても悔しい思いをしました。なので、今まで以上に努力をして試合で結果を出せるように練習しました。試合に出て結果が出たときはとてもうれしかったです。

 そして、高校に入学して野球部に入りました。入学した当初は、学校にもまともに行かず、野球部のみんなに迷惑ばかりかけていました。でも、このままじゃだめだと思い、学校生活からしっかりして、今はまじめに野球をやっています。

 

 

★ 努力一筋           Y・K(控え)

 僕の夢は野球選手です。プロ野球選手になるためには、高校野球で活躍することです。今はいっぱい練習して、いっぱい怒られて成長したいです。高校野球で活躍するには毎日自主練習をしています。

 人は努力をすればするほどいいことが起こる。野球は人を変える。野球は感動を与える。だから僕は野球をしています。だって感動を与えるんですよ。それは最高でしょ。なので、プロ野球選手になりたいと思いました。

 高校野球は、ほぼ毎日練習があります。細かいことをいうとバッティングをしたり、守備をしたりです。練習を頑張れば試合で結果が出せるし、努力して悪いことは絶対ない。僕はそう信じています。高校野球最高です。

 僕はへたくそです。へたくそなりに頑張っています。バッティング・守備ともにへたくそです。だから、もう努力一筋で頑張っていきます。

 

 

 

 

日本一の下剋上 2018

 

「日本一の下剋上です」

そんな言葉を生み出した高校生がいた。

野球部のキャプテンだった。

いろんな人に、自分たちのやれることを示したい!

そんな夢でも見てたのか、そう確信してたのか。

 

いや、ただ見返してやる、自分たちのチームは不屈だ、やってやるんだ。

そう思い続けて試合を重ねてきたんだろう。

彼らの矜持だったのだ。

 

そして、高三の夏に、たくさんの人々へ自分たちの輝いている姿を見せつけてくれた。

それは誰にもできない、彼らならではのことだった。

 

私たちはその姿を目撃した。

もう止められなかった。

とことん行くところまでやってやる。

そんな感じだった。ものすごい勢いがあった。

 

それから二週間後の甲子園では大敗してしまった。

でも、スタンドは彼らが輝く姿を見たくて、いつまでも応援したいと思っていた。

凡打になろうが、相手の校歌だろうが、夜になろうが、満員のスタンドはいつまでも彼らを応援した。

スタンドの人々も「下剋上」を応援し、自分もそうなりたいと思ってたんだろう。

 

試合は終わり、選手たちはふるさとに帰った。

でも、下剋上魂は、彼らがいるところでずっと続いていくんだ、きっと。

 



ほんとなのかな? まあ、どっちでもいいや!

 

 ネットで見ていたら、五年前の甲子園に出た下剋上球児たちだった、その子らがエキストラで出て、甲子園にドラマで出ていた、と書いてありました。

 

 本当なのかどうか、よく見てみましたが、わかりませんでした。もう五年も経過しているから、本人たちが現われても、私にはわからないかもしれません。

 

 だから、確かめようがないのです。でも、五年前の夏を思い出させてくれるのが何であろうとも、それはそれで懐かしく、そんなこともあったねえと思い出せます。

 

 具体的に何が? どんなことが? というのはなくて、暑くて、しんどくて、一瞬に過ぎて行って、終わったらサッサと帰って、次の日も仕事で、落ち着かないけど、何だか充実感があった日々でした。

 

 私は何もしていないのだから、ただ有難がればいいだけですけど、それにしても、いい経験のできた夏でしたね。もうあんなことは二度と起こりません。淡々と過ごすだけのことで、スケジュールの中で日程が処理されていくでしょう。

 

 でも、もう一度火がついたら、私みたいなものでも参加できるだろうかな。

五年前の夏、五年後の冬

 今年は、あと二週間ほどです。2024年になってしまいます。オリンピックもあるんでしょうか。でも、あまり興味ないですね。パリでどんなすごい記録や、すごい選手が出たとしても、もう私たちは喜べない気がします。

 

 テレビやマスコミなどが騒いでいても、そんなのウソだろ、と思うだろうし、誰がメダルを取ろうが、本人は頑張ったし、達成感はあるだろうけど、世の中がこんななのに、とてもお祭り騒ぎなんてできません。2024年になって、すべての戦争・紛争が終わるでしょうか? 終わらない気がします。

 

 それなのに、五年前の夏の私たちは、とんでもない忙しさに見舞われ、とんでもない経験をさせてもらいました。生徒たちと学校関係者と、町の人と、そんなにたくさんの人ではなかったとは思うけれど、どういうわけか、いろんな人たちがやって来ました。みんな何かあそこでとんでもないことが起こったから、それを見て来い、取材しろと言われてきたんでしょう。

 

 大騒ぎは、七月二十五日から八月十一日まででしたけど、あれは私たちだけしか経験できない日々でしたね。関係者だから味わえるドタバタ劇でしたよ。

 

 当事者じゃないと経験できないことって、あるのかもしれないです。そして、それは永遠に続くものではないけれど、いつかは終わるものなんだけど、その経験は消えなくて、いつまでも当事者の心の中で燃え続けている。

 

 だから、五年後の冬を迎える私でも、確かにそんなことがあった。全く条件的には報われない、弱小チームであったのに、たまたまそこに集まった選手たちに連れられて、みんなでいろんな夢を見て、みんなで試合を作り上げ、みんなでそれを終わらせたんでした。

 

 2018年の夏、お盆とか、何をしたのかまるで記憶がありません。それなのに、お盆の前のあの日々だけは記憶に残っている。

 

 たまたまドラマによって、もう一度思い出せたのだけれど、関係者以外の人たちに、ドラマはどれだけ夢を見させてくれたのか、私にはわかりません。ただ、同じように夢を見てくれたら、うれしいなと思います。

 

 きっと、いろんな逆境にいる人たちにエールを送るドラマだったんですね。もう終わりというのは悲しいけど、また明日から、私は私の道を歩いていかなくてはと思わせてもらいました。うれしかった。懐かしかった。

 

 みんなも、あの時のこと、思い出して、また明日から頑張ってもらえたら、うれしいです。私たちには、とても懐かしいドラマでしたね。